ゼロ年代の創造力
2008年 12月 07日
ネット上では知る人ぞ知る
サイト、惑星開発委員会主催
雑誌PLANETS編集者
宇野氏による00年代の
サブカルチャーを振り返る検証本。
個人的にはもう7,8年前に読んだ
終わりなき日常を生きろ
サブカルチャー世界遺産
あたりからこういう分担上の
サブカル論、オタク論みたいのも
チロチロ見るようになってきたんですが
内容的にはその「終わりなき日常を生きろ」
(90年代後半)から「動物化するポストモダン」(00年代前半)に
連なる(踏まえた)内容になっています。
宇野氏は大塚英志、宮台真司、東浩紀、岡田斗司夫氏あたりから
延々と続くオタク、サブカル蘊蓄の新鋭さんなんでしょう。
惑星開発委員会は毒舌で賛否分かれるものの、かなり論理だった
ハイレベルな批評も繰り広げられているので、凄いなーと思う反面
あまりに思考のこねくりまわりが過ぎて、インテリさん特有の
優越感ゲームに興じてる節も感じられて、ちょいと近寄り辛さも感じるサイトなんですが。
もう2000年代もほぼ10年近く経過しその検証にいち早く入ったという
内容に素直に惹かれた1冊。バトルロワイヤルかららき☆すたまで。
エヴァとリヴァーズエッジといった90年代的価値観の物語から始まって、00年代に生まれた新しい物語がどう変化したかを邦画、小説、ドラマ、アニメ、漫画の枠を
超えて語られています。個人的にはそもそもサブカルレベルで括れる作品が
そこまで社会の流れや時代性を踏まえているかというと作品単体では
絶対そこまで深くは追求してないと考えるので、1作をそこまで蘊蓄しつくしても
意味がないと思うんですが、その時代性も踏まえ作られた作品を複数まとめて
見ていくと、個人の作家の思考も超えて共有されてる時代性やテーマは
確かに見えくると思ってます。
~は自分たちの文化なので味方、~は自分たちの味方でないので敵
データベースの海から好ましい情報だけ引き出して容易に住み分けることができる
現代社会、そして住み分けられた島宇宙同志が否応なしに同一のフィールドに
並べられてしまう現代社会においては異なる島宇宙(トライブ)同志の
動員ゲーム=バトルロワイヤルが発生するのだ・・・
という後半にある文章に集約されるとおり現代のweb上にある
文化の細分化とその対立構図(オタvsスウィーツやネットのウヨサヨ
論争)なども実態はそういったアイデンティティに関わるレベルの問題で
そこでの議論の多くが、基本的な本質は置き去りにされているのは確かでしょう。
それは大きな物語が失われ、宗教がそのシステムとして機能せず(特に日本)
ポストモダンの細分化が進み、何が正しいのかの指標がなくなってきているため。
国内のサブカルチャーの「物語」の世界では大きな物語が失効されたあとの
90年代的な「引きこもり的AC作品」(エヴァ、リヴァーズエッジ、幻冬舎文庫)
そのあとを引きついだセカイ系作品(最終兵器彼女、イリヤの空・UFOの夏、AIR
ほしのそら、涼宮ハルヒの憂鬱、世界の中心で、愛を叫ぶや失楽園も。。。)
そして、それら終わりなき日常世界(ある種の諦念)を前提として受け入れた上で
(そのまま引きこもっていたら)あっという間に負け犬になる「戦わなければ
生き残れない状況(小泉構造改革による格差化、グローバル化の歪が生んだ9・11以降)
を敏感に感じ取った「ゼロ年代サヴァイブ系((決断主義)」(バトルロワイアル
無限のリヴァイアス、仮面ライダー龍騎、野ブタ。をプロデュース、DEATH NOTE
LIAR GAME、コードギアス)これらの変化をジャンプのトーナメントバトル→カードバトル
の変化などを絡ませながら論理づけていったうえで、決断主義(異なる島宇宙同志の対立)
が進む状況の処方箋として機能する良質の物語として、モノはあっても物語はない
郊外型に新しい価値観をあたえた(ものはあって物語もある新しい郊外型)宮藤官九郎作品
中でも「木更津キャッツアイ」(個人的にはフィッシュマンズや夕闇にもそういう
臭いが確実にあったと思います)似た質感を持つ作品として後半の注釈では「銀魂」が。
また動員ゲームを進めていくうちに有能な動員ゲームのプレイヤーが
「木更津的共同体」の良さに徐々に気づいていくドラマ版「野ブタ。をプロデュース」などが
あげられています。また終わりなき日常を見据えた上で、何もなさそうで実は刺激に
溢れた日常を描いた物語として矢口的青春映画の系譜
「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」→「リンダ・リンダ・リンダ」の流れも提示。
こういった思考の経緯を綴ることで、けっきょく著者の肩入れする作品を
啓蒙する流れになっているのでは?という批判もあったりする一方で
最近サブカル論がオタク系作品に偏ってしまいドラマや邦画は「文化系」として乖離した
状況を(まさにポストモダンの細分化による島宇宙化)バッサリと切り崩し
ゼロ年代全般の作品を総括・俯瞰して議論し、「居心地のいい島宇宙に閉じこもって耳を
塞いでないで、痛みをともないつつ積極的に(決断的に)異文化交流すべし」という点を
結論の1つとしてあげているのは大いに共感できるトコロ。あと、この本特有な
表現として使われてる「安全に痛い」」(受け手にとって都合のいいご都合主義的展開や
ハーレム設定などを相殺するための悲劇的なエピソードなどを指し、それが本質的な
解決や擁護として機能しておらず、都合のいい設定を相殺する免罪符としてしか
機能してないもの・・・でいいのかな?)という言葉は、うまい表現したもんだと思います。
ともあれゼロ年代の物語全般を決して否定したり、悲観する訳ではなく、その先を
さらに見据えた希望ある流れとして総括しています。そこには毒のある批評も
垣間見られますが、意外にこれが綺麗にまとまっています。興味ある人は必見。
サイト、惑星開発委員会主催
雑誌PLANETS編集者
宇野氏による00年代の
サブカルチャーを振り返る検証本。
個人的にはもう7,8年前に読んだ
終わりなき日常を生きろ
サブカルチャー世界遺産
あたりからこういう分担上の
サブカル論、オタク論みたいのも
チロチロ見るようになってきたんですが
内容的にはその「終わりなき日常を生きろ」
(90年代後半)から「動物化するポストモダン」(00年代前半)に
連なる(踏まえた)内容になっています。
宇野氏は大塚英志、宮台真司、東浩紀、岡田斗司夫氏あたりから
延々と続くオタク、サブカル蘊蓄の新鋭さんなんでしょう。
惑星開発委員会は毒舌で賛否分かれるものの、かなり論理だった
ハイレベルな批評も繰り広げられているので、凄いなーと思う反面
あまりに思考のこねくりまわりが過ぎて、インテリさん特有の
優越感ゲームに興じてる節も感じられて、ちょいと近寄り辛さも感じるサイトなんですが。
もう2000年代もほぼ10年近く経過しその検証にいち早く入ったという
内容に素直に惹かれた1冊。バトルロワイヤルかららき☆すたまで。
エヴァとリヴァーズエッジといった90年代的価値観の物語から始まって、00年代に生まれた新しい物語がどう変化したかを邦画、小説、ドラマ、アニメ、漫画の枠を
超えて語られています。個人的にはそもそもサブカルレベルで括れる作品が
そこまで社会の流れや時代性を踏まえているかというと作品単体では
絶対そこまで深くは追求してないと考えるので、1作をそこまで蘊蓄しつくしても
意味がないと思うんですが、その時代性も踏まえ作られた作品を複数まとめて
見ていくと、個人の作家の思考も超えて共有されてる時代性やテーマは
確かに見えくると思ってます。
~は自分たちの文化なので味方、~は自分たちの味方でないので敵
データベースの海から好ましい情報だけ引き出して容易に住み分けることができる
現代社会、そして住み分けられた島宇宙同志が否応なしに同一のフィールドに
並べられてしまう現代社会においては異なる島宇宙(トライブ)同志の
動員ゲーム=バトルロワイヤルが発生するのだ・・・
という後半にある文章に集約されるとおり現代のweb上にある
文化の細分化とその対立構図(オタvsスウィーツやネットのウヨサヨ
論争)なども実態はそういったアイデンティティに関わるレベルの問題で
そこでの議論の多くが、基本的な本質は置き去りにされているのは確かでしょう。
それは大きな物語が失われ、宗教がそのシステムとして機能せず(特に日本)
ポストモダンの細分化が進み、何が正しいのかの指標がなくなってきているため。
国内のサブカルチャーの「物語」の世界では大きな物語が失効されたあとの
90年代的な「引きこもり的AC作品」(エヴァ、リヴァーズエッジ、幻冬舎文庫)
そのあとを引きついだセカイ系作品(最終兵器彼女、イリヤの空・UFOの夏、AIR
ほしのそら、涼宮ハルヒの憂鬱、世界の中心で、愛を叫ぶや失楽園も。。。)
そして、それら終わりなき日常世界(ある種の諦念)を前提として受け入れた上で
(そのまま引きこもっていたら)あっという間に負け犬になる「戦わなければ
生き残れない状況(小泉構造改革による格差化、グローバル化の歪が生んだ9・11以降)
を敏感に感じ取った「ゼロ年代サヴァイブ系((決断主義)」(バトルロワイアル
無限のリヴァイアス、仮面ライダー龍騎、野ブタ。をプロデュース、DEATH NOTE
LIAR GAME、コードギアス)これらの変化をジャンプのトーナメントバトル→カードバトル
の変化などを絡ませながら論理づけていったうえで、決断主義(異なる島宇宙同志の対立)
が進む状況の処方箋として機能する良質の物語として、モノはあっても物語はない
郊外型に新しい価値観をあたえた(ものはあって物語もある新しい郊外型)宮藤官九郎作品
中でも「木更津キャッツアイ」(個人的にはフィッシュマンズや夕闇にもそういう
臭いが確実にあったと思います)似た質感を持つ作品として後半の注釈では「銀魂」が。
また動員ゲームを進めていくうちに有能な動員ゲームのプレイヤーが
「木更津的共同体」の良さに徐々に気づいていくドラマ版「野ブタ。をプロデュース」などが
あげられています。また終わりなき日常を見据えた上で、何もなさそうで実は刺激に
溢れた日常を描いた物語として矢口的青春映画の系譜
「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」→「リンダ・リンダ・リンダ」の流れも提示。
こういった思考の経緯を綴ることで、けっきょく著者の肩入れする作品を
啓蒙する流れになっているのでは?という批判もあったりする一方で
最近サブカル論がオタク系作品に偏ってしまいドラマや邦画は「文化系」として乖離した
状況を(まさにポストモダンの細分化による島宇宙化)バッサリと切り崩し
ゼロ年代全般の作品を総括・俯瞰して議論し、「居心地のいい島宇宙に閉じこもって耳を
塞いでないで、痛みをともないつつ積極的に(決断的に)異文化交流すべし」という点を
結論の1つとしてあげているのは大いに共感できるトコロ。あと、この本特有な
表現として使われてる「安全に痛い」」(受け手にとって都合のいいご都合主義的展開や
ハーレム設定などを相殺するための悲劇的なエピソードなどを指し、それが本質的な
解決や擁護として機能しておらず、都合のいい設定を相殺する免罪符としてしか
機能してないもの・・・でいいのかな?)という言葉は、うまい表現したもんだと思います。
ともあれゼロ年代の物語全般を決して否定したり、悲観する訳ではなく、その先を
さらに見据えた希望ある流れとして総括しています。そこには毒のある批評も
垣間見られますが、意外にこれが綺麗にまとまっています。興味ある人は必見。
by kgapk2004
| 2008-12-07 21:09
| ノンフィクション